2009年9月1日火曜日

構図について考えてみる

今月のアサヒカメラ(9月号)の特集記事として、「デジタル黄金分割」というものがあります。「黄金分割」‥‥参加している写真クラブの勉強会なんかでも、時々聞かれる言葉です。
どうも、個人的にはこの「黄金分割」というものがあまり好きではありません。概ね「黄金分割」というものは、画面の縦を三分割、横を三分割して、そのラインもしくは交差する点を意識して構図をまとめやすいと説明・紹介されることが多いようです。非常に古典的な方法でもあります。
そもそも絵画の構図方法として考案されてきたものを、写真の構図にそのままいかしていいものか、その点が自分の中ではしっくりこないのです。
絵画の構図はいかにキャンバス上に世界を構築するかという事になるかと思います(自分はそう感じているのですが‥‥)。写真の構図というのは、目の前にある光景をいかに切り取るかということになります。写真の構図はその画面の中で完結するというよりも、切り取られた画面外側の気配を感じさせるものでなくてはいけないと思うのです。現実の一部分を「切り出してくる」という感覚を意識しなくてはいけない。いかに画面の中だけで完結させないか‥‥とまで考えてしまいます。
壁に掛けられた鏡は、右に左に視線を移すとさらに奥の世界が見えてきます。写真も同様に(実際に見えるはずはなくても)、画面の外に広がる世界の気配が鏡の様に感じられなくてはいけないと思うのです。
また(少し意味合いは変わりますが)、「切り取る」という感覚からすれば「時間」というラインも写真は切り取ります。その写された瞬間の前、そして後に、本来続いているであろう時間の軸を感じさせる撮り方も考えなくてはいけません。
空間的な繋がり、時間的な繋がり、画面の外にまでそれを感じさせる写真を撮ってみたいといつも思っています(なかなか難しいのですが)。

「黄金分割」は確かに簡単にバランスよく構図のとれる方法であることは疑いないでしょう。しかし、「黄金分割」を意識しすぎるとやっぱりよくないなぁと思います。画面の中のみで構図を完結させようという意識が強くなりすぎて、「枠の外」の気配が感じにくくなってしまうような気がしてなりません。

写真クラブの作品展などで、黄金分割にとらわれすぎて、ずらりとならんだ1点1点作者も撮影地も違う風景写真が、離れて会場全体を眺めたときに額の中の作品の地平線がずらーっと同じラインにならぶというのも、ありそうな話です。

ところでアサヒカメラの特集「デジタル黄金分割」(特集ページには「デジタル(時代の)黄金分割」としてありますが)、何で「デジタル」と特別うたう必要があるのでしょうか?内容も特別デジタルというものでもなかったような。今の時代、何でも「デジタル」と書いておいたほうが人の目を引くのかなぁ‥‥。

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